Safe Place

自分の言葉で生きるための場所

書きました。

私は自分の言葉を取り戻したかった。
論文を書こうとしても言葉が出なくて、でもそれはトレーニングが不足しているからで、鍛錬を積めば克服できるものだと思っていた。
だから大学院に進学した。起きている時間はほぼ全てといっても過言ではないほどに勉強した。
でもなぜか文献を読めば読むほどどんどん辛くなっていくし、専門家側が作り上げる「ストーリー」が、とても怖かった。私が勉強していたのは、実際に何が起きたかではなくて、事実を部分的にピックアップして再構築した後に検討する学問で、それは私には何の助けにもならないと思った。
言語中心のカウンセリングを受けながら、ソマティック系のワークも単発でセッションを受けたり、自分で試したりした。
でも長い間進展はないままで、あるとき覚悟を決めて、身体の声を聴くことに集中することにした。身体が発するメッセージを、ただただ受け取り続けた。ヨガもソマティック系のワークも、何をやっても「模範的」でいるために知らず知らずのうちに無理をしてしまい、何も感じられないままなのに、気付けば限界を超えてパニックに陥ることを何度も繰り返した。少しずつ強度を下げて、どんなに下げてもパニックになるので、ついに「何もしないワーク」をすることにした。時間だけ計って、ワークを始める前の状態から何も変えないし、何もしないというもの。そうしているうちに、ワークを始める前、途中、終わった後に時間が流れていることが分かるようになった。あと、当然なのだけど、その間ずっと何も起きていないことも。そして、その何も起きないことが「安全である」ということを意味するのだと。そこからはその安全であるという感覚をベースに、その範囲でワークを続けるようになった。そしてある日、記憶の核心部分が出てきた。
両親は共働きで、私が中学生の時に別居し、その後離婚している。別居前の彼らの喧嘩はひどいもので、父が母に暴力を振るいそうになったり、食器を壊したりすることがあった。だから当初、私と母は父のDVから避難するのだと思っていた。彼女はテーブルや棚を購入し、引っ越し先の準備は自分達で整えるのだと主張したし、私はそれを信じた。
でも実際には、彼女は車や家電製品、父が何年もかけて撮りためた家族写真などを何のためらいもなく全部持ち出した。彼女にとっては、格下の家庭で育った父は目下の者であり、そんな人物が大切にしてきたものを奪うのは何の問題もないことのようだった。私が小さいころから憧れ、帰りを待ち続けたこの人はこんな人だったのか。知っていれば別居に賛成することもなかったのに。私は窃盗犯に手を貸してしまったような絶望感を覚えた*1。大切な人を暴力から守ろうと戦って、振り向いた瞬間にその人に刺されたような感覚で、でも傷はどこにもないから、そんな風に感じる自分が悪いのだとただ自分を責めた。当時の私は私立校に通っていて、高校への進学は無試験だったにもかかわらず、彼女は難癖を付けて進学も阻止しようとした。でもそれも、卑属であり目下の者である私が入試に合格して正当に得た権利であることなどどうでもよかったのだろう。
私は信頼が何なのか、全く分からなくなった。足元はぐるぐる回るし、常に緊張が取れずに無意識のうちに身構えてしまう。それでも私はそんなことが起きるのは自分が弱くて悪いからだと自分をさらに責めた。
私が苦しんでいることに気付いてくれる人も、耳を傾けてくれようとする人もいた。今思えば驚くほどたくさん。でも誰にも言えない。周囲は当然のように学費を出してもらって守られている人たちで、もしこのことを口にしたら、もう私のことを仲間だとは見てくれなくなるかもしれない。両親の職業柄、彼らの信頼問題に発展するかもしれない。こんなことが起きる家の子供だから私も同じだと見られるかもしれないし、もしあの行為が窃盗なのだとしたら、結果的に見過ごすことになった私の倫理観も問われてしまうとも思った。だから、「気遣ってくれてありがとう。でももう大丈夫だから」と言うしかなかった。自分だけガラスの向こう側に取り残されているようで、でも安全を守れたことには安堵したりもした。
苦しくて苦しくて、その苦しさから逃れようと部活に打ち込んでみたものの、頑張れば頑張るほど苦しくなるばかりで拒食にも悩まされた。動けなくなり退部した後、それは過食に転じた。食べ物を詰め込んでいるうちに、スイッチが切れるように苦しみを感じなくなっていった。痛みがあると苦しまなければならないけど、苦しんでも逃れられないのなら覚えていなければいい、と身体が言っているようだった。
痛みを切り離したことで日常生活が送れるようになり、そのことによって大学進学が可能になった。でも、切り離した痛みは存在しなくなったわけではなく、自信のなさや不安感の強さとして、在学中もその後の社会人生活でも常に私を苦しめた。そして最初に書いた大学院進学に至る。
今思えば、私は中学生だったあの時、悲しかったし、寂しかったし、辛かったし、怖かった。本当にただそれだけだった。でも、それをないものにしてしまうと、記憶自体がなくなってしまう。そして記憶がないというのは自分自身の一部がなくなるということだった。まだ全ては取り戻していないし、その必要もないのかもしれないけど、私が取り戻したかった言葉は当時のこの気持ちを言語化するためのものだ。

*1:ちなみにこの時の母親の行為が刑法235条の構成要件に該当するか否かといえば、多分する。2021年現在ネットで調べると、別居あるあるのようで、刑事でも民事でも余程でないと問題にはできないらしい。でも当時はネットもなく、弁護士は気軽に相談できる相手でもなかった。

タイトル変えました。安全な場所について。

ブログのタイトルを変えました。

今まで、親の支配から抜け出すことができてからも、自分の言葉で意見を表明することができなくて、何故なのかずっと不思議だった。

多分ポイントは安全の確保なんですよね。私は親も信頼できないけど、生育環境から周囲の人たちもそれほど信頼できてなくて。今までは、あまりに信頼できないゆえに、不信感さえ示すことができず、可能な限り周囲の人たちの要望を察して、全力でそれに合わせることで何とか生き延びてきた。愛着障害でいうところの無秩序型愛着とか、過剰適応と言われる状態。

最近になって、ようやく親だけでなく、周囲に対しても不信感を抱いていることを、安心して表現できるだけの世界に対する信頼感を得られるようになった。本当に信頼感のないときは、それさえ表現できないもので。

そこで、自分の言葉を取り戻すための練習として、この場を使ってみようと思って。少しずつやってみます。